最近やたら感謝する人、したがる人が目につく。むりやり前向きになっている人が目につく。しかしその実体は中身がないこともよくわかる。不安から来ることもよくわかっている。自分がそうだったから。
そういう人たちに共通するのは思考が浅く、洞察力がないということ。
何に影響を受けたかでその人の人生は大きく変わると思う。
例えば本、映画、音楽。影響を受けた作品群の浅さ、深さがその後の人生を決める。
個人的にはオリジナルに触れるのが一番いいと思う。二番煎じ、三番煎じくらいならまだ味は残っているが、五番煎じ、六番煎じになるとほぼお湯である。それにも関わらず味があると思い込み、お茶ではないものをお茶だと信じ込んで飲み続けている。
だから「本物のお茶」に初めて触れた時に濃すぎて飲むことができない。本物を理解できない。
世の中にはその五番煎じ、六番煎じが当たり前のように氾濫している。わかりやすさは正義かもしれないが、内容を薄くしてまでわかりやすさを追求する必要はないと思う。
ショーペンハウアーの”読書について”でそのほとんどに対する答えがあった。
自分で考えることと、本を読むこととでは。精神におよぼす影響に信じがたいほど大きな開きがある
自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識よりも、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある
学者、物知りとは書物を読破した人のことだ。だが思想家、天才、世界に光をもたらし、人類の進歩をうながす人は、世界という書物を直接読破した人のことだ
彼が後世に伝えたいことはシンプル。
自分の頭で考えなさいということだ。
浅い人も何かしらからポジティブなものから影響を受けているのだとは思うが、自分で考えて深層に落とし込むという作業を怠っているのだと思う。
自分を正当化するために誰かをdisる文化も思考の浅さからきているのは間違いない。
それをやると簡単に敵を作り、それに同調してくれたとしても、その人たちも似たようにすぐに誰かをdisる人たちだ。そんな中にいて精神が真の安らぎを得られるはずがない。
自分の頭で考えずに、思いついたことを何も考えずに実践しているだけだ。だからそういう人たちの言葉は何も響かない。
うわべだけをなぞってそれに共感してくれる人というのは、しょせん浅いものにしか反応できない浅い思考の持ち主。そんな人々を相手にする必要はない。
自分の頭で考え、それを吐き出し、たとえ多くの人に理解されなくても少数の洞察が深い人々に届けばそれでいいと思う。
自分が貴重な時間を使って話したい人々というのはそういう深い思考能力を持つ人々であり、誰でもウェルカムという姿勢は最終的には自分を消耗させるだけのことだ。
そんなことをしている時間は僕にはないし、今後も作るつもりはない。
優しいだけの甘い言葉は何も生み出さない。