内向型の逆襲

念のため言っておきますが、ブログ名がとてつもなくダサいことは認識していますよ

体罰としつけの境目、怒りと叱りの境目

親の体罰を禁止。改正児童虐待防止法成立というニュース。

本来は「未熟な人間は結婚するな」で済む案件なのですが、未熟な人間ほど結婚したがるもの。その先に必ず虐待がある以上、罰則を設けるのは必然なのかもしれません。

 

少し前にも書きましたが、僕の中学校時代はまだ生徒を殴る先生がたくさんいました。ちょうど昭和が平成にかわった頃です。人を殴る不良もたくさんいたし、それと同じだけ人を殴る先生もいた。今思えばあれは同じ人種だったんですね。

 

僕の個人的な意見ですが、未熟な人間ほど人を殴りますよ。そしてそれをなんとも思わない。あろうことか教育だと勘違いしている輩もいた。もちろんあの人たちは全く罰せられません。そのうち天から裁きが下ることでしょう。

 

自分の子供にしつけという名の元に虐待を加え、子供のメンタルにかなり悪影響を及ぼし、それが原因で子供の人生が崩壊する。それでも自分は何も悪くないと思っているし、そういう人々は自分の犯した罪にけっして気づきませんよ。正しいことをやっているとしか思っていないんじゃないかな。

 

力による暴力だけでなく言葉も同じだと思います。自分の子供だから、親戚だから、何を言っても構わないと勘違いしている人があまりにも多く、僕はほとんどの親族を嫌いになってしまいました。

今後は相手を慮ることのできるひと握りに人々だけとしか交流しないつもりです。精神的に野蛮な人と接するとこちらが病んでしまうのでそれでいいと思います。

 

■全ては相手に対する敬意から

親しき中にも礼儀あり。

これは人付き合いの基本です。親や子供、兄弟・姉妹全て同じ。なんでも言い合える間柄を礼賛する風潮がありますが、それってノーガードで殴りあうのと同じ。かなり危険なことですよ。言葉を発する以上は必ず相手に対する配慮が必要です。

 

相手を殴る時点でもうその人に対する敬意はないんじゃないですか?

暴言を発する時点でその人に対する敬意はなくなっているんじゃないですか?

 

たとえ一時的な感情の暴走であったとしても、敬意がないから手が出るのです。暴言を発するのです。

そしてそれを正当化するために

「相手のためを思って」とか

「しつけとして」とか

後付けで理由をでっちあげるのです。

 

仮にその本人が「暴力的しつけ」に耐えられたからと言って、同じことを他人が耐えられるとは限りません。人間には個体差があるからです。

 

「自分が大丈夫だったから」

「相手にも同じことをしてやろう」

いや、そういう人々はそこまで考えてないですかね。ただなんとなく感情が暴走し、ただなんとなく人を殴り、ただなんとなく暴言を吐いている。それだけのことなのだと思います。怒っているだけで、叱ってはいない。

 

「相手のためを思って」が相手にとってベストになるとは限らない。むしろならないことのほうが多いのが世の常。

自分という一個体の主観を押し付けるのではなく、相手にとってのベストを知ろうと考えること。それが親にあれば子は生きる。なければ子は死ぬ。肉体的には死んでいなくても、精神は完全に崩壊する。

 

もし仮に力や言葉での「痛み」に学習効果があるとしても、それは「この人は敵である」という敵対認識だけだと思います。その痛みがプラス方向に働くことはないと断言します。

過去多くの才能あるミュージシャンが自殺してきました。幼児時代の虐待経験が原因の1つであることが少なくありません。虐待を経験すると当たり前に人を信頼すること、安心することができなくなるのです。

常に「親の怒り」を浴びてきた心の痛みは想像を絶するものです。

 

■敬意を感じた時、人は安心する

「親しき中には礼儀なし」の人が親族に何人かいますが、接すると発狂する寸前まで僕が病んでしまいます。

 

やっぱりね、そういう人は100%口が悪いですよ。振る舞いにも品がない。

人間の精神は勝手に成熟するものではないので、それを怠ってきた人はそれなりの言動しかできません。

 

未熟であればあるほど、

手が出るし、手が出なくても暴言を吐く

それによって子がどうなるか。それを想像できないからそれを何十年も続けるのでしょう。

教師も、親も、上司も、相手に敬意を払ってこなかった人々の罪は相当重いです。そして子供・部下に深い闇を残してしまった罪は罰を受けても許されるものではないですよ。

 

親しき中にも礼儀あり。

これさえ意識していれば何もトラブルは起きないはずです。

親子関係、友人関係、恋人や夫婦関係、会社での同僚や上司との関係全て同じです。

「あ、この人は自分に敬意を払ってくれているな」と感じた時、人はその人に対して敵意は持たないようにできています。安心して生きていくことができます。

敬意に包まれた健全な関係、その積み重ねが幸せというものではないでしょうか。

 

親しき中にも礼儀ありを常に実践する人。

無意識に相手に敬意を払える人。

それを大人と呼ぶのです。

 

他人に敬意を払えない人が「おっさん」以上の存在になることは決してありません。