ライブを観に来てもずっと人としゃべっていて全然音楽を聞かない人がいます。
「君、音楽本当に好きなの?」
「好きなら耳傾けるよね?」
お客さんならまだしも、演奏者自らそんなことをやっていたりします。
少なくとも僕はそんな人がまともな音楽を創れるとは思いませんね。
昨年だったかな?中学の頃の美術の先生の個展を見に行った時も、ずっとしゃべっているおばさん軍団がいて、本当に絵を観に来ているのかなと疑問に思いました。
音楽を聴く
絵を観る
映画を観る
ただそれだけのことですら全然集中できない人がいます。
没頭力が皆無なんですね。1人で堪能するということができない。
僕はライブを観に行った時は黙って聴いているし、人と話もしません。ケータイもみないし、当然スマホゲームもしません。
そうしないと耳に音楽が入ってこないからです。
ベラベラしゃべっている人はまず聴く気がないですよね。
あの人たちは一体何をしにきているの?
■芸術家への道
アーティスト、芸術家、クリエイター、名乗るのは簡単です。
楽器を買った瞬間にバンドマンになれるように、今の時代誰でもなれます。
その人の感性の集大成がアートだと思っていますので、前述した没頭力が皆無の人が作成するアートはそういうレベルのものになってしまう。これは仕方のないこと。
良質なインプットあってこそ、アウトプットが可能なのですから、自ら音楽のインプットを遮断している人が、良質なアウトプットをすることはまずないですよ。
実体験からそう思いますね。
ベラベラしゃべってばかりいる人の音楽はめちゃくちゃしょぼい
口の電源をオフにして、耳の電源を入れましょう。
芸術家への入口はそこですよ。本当にそれだけ。
アートに触れている時間が重要です。
■俗世間に触れてばかりいるとアートは生まれない
世間でさまざまなことが起きますが、ほとんどがこの騒ぐことだけが好きな人々の起こすことです。9割くらいはそうじゃないですか。
そんな人たちが起こすことに触れても自分にとって何もプラスにならない。
だから音楽を聴いたり、本を読んだり、映画を観たり、アニメを観たりするのです。
常に感動していたいとかそういうわけじゃないけど、少なくとも作者が魂を込めて作り上げたものにはそれだけの価値がある。
そういうモノに少しでも長く触れていたい。
「この作者はこんなストーリーを思いついて凄いなあ」
「うわ、ここでこのコード進行を使うか」
「なんだこの言い回しは、この単語をここで使うか」
良質なアートに触れる、ただそれだけで幸せを感じます。
それだけでここまでなんとか生きてきました。
「職場の上司がむかつく」
「使えない部下がいて困る」
「前の車の運転イライラする」
非アートな感情が世の中に氾濫しています。
そんなものに多く触れれば触れるほど、真の芸術からは遠いものになってしまうのは、当然のことじゃないでしょうか。
俗世間にどっぷり浸かってしまうことは芸術家志望者にとって明らかに不利ですよ。
無理矢理にでも「崇高な自分・孤高の自分」を演出した方がいいと思います。
■語彙が少ないと作品の本質を理解できない
これが何なのか理解してガンダムを観るのと観ないのでは面白さが全然違います。
知らなくてもなんとなくストーリーは理解できると思いますが、ミノフスキー粒子を理解してから観るとさらに面白い。
「ねえパパ、ミノフスキー粒子って何?」って聞く少年はかなり将来有望ですよ。疑問を持ってそれを解消することから作品の理解は始まります。
映画を観ていても、難しい言い回し、気の利いた言い回しを明らかに簡略化して字幕にしているところがあります。これは理解力の低い人にもストーリーをわかってもらうためのこと。
「あの映画、意味がわかんなかった」っていう人を少しでも減らし、映画館に足を運んでもらったり、DVDを買ってもらわないとビジネスが成り立たないからです。
邦画でももちろん言葉の意味がわからなくてもなんとなくストーリーを理解できるようになっていますが、言葉をきっちり理解して全てのセリフが完全に頭の中に入ってくると、さらにその映画の深みを味わえるようになります。
それをしないでつまらないと文句ばかり言っている人、
ライブに来てしゃべってばかりいる人、
そりゃあ楽しくないでしょう。
アートを理解するためにはある程度の知識と勉強、そしてほんの少しの自制心が必要なのです。