内向的でも生きていけるはず

主に人間関係について書きます。少しでも読んだ人が楽になれば嬉しいです。

パリピとは会話ができない

僕は一人で行動するのが好きだし、それが僕にとって普通なので人が集まる場所では孤立しがちだ。人の輪に入っていけない。

 

イベントがあるとたいてい打ち上げという名の親睦会がセットでついてくる。先日も少し顔を出したが、やはり孤立した。孤立したというと大げさだが中央の盛り上がっている集団をどうしても避けてしまう。毎回打ち上げでは孤立するので慣れたし、僕にとってはこれが当たり前なので悲しいとか寂しいとかそういうのは特に何も思わない。ただいろいろ想うことはあるので少し整理しておきたい。

 

なぜパリピ集団を避けるのか

盛り上がっている集団に入るのを避けるのはいくつか理由がある。

・自分の話をしたいだけで人の話を聞いていない

・落ち着いてじっくり話すのが好き

・ローテンションで話を聞いてくれる人が好き

 

僕はテンションが高い人が苦手である。テンションが高い人は一見ポジティブに見えるが実は不安に心を支配されている人だと思っている。自分の中に不安があるから何かを話さずにはいられない。だから人の話を聞かずに延々と自分の話を繰り返す。

「うんうん、わかるよね。でもわたしは・・・・・・」

話なんか聞いちゃあいない。

 

僕は思ったこと全部言う系の人々も苦手である。頭の中で何も整理出来ていないのに、言葉に出てきてしまうのだろう。口数だけがやたらと多く中身が何もないのが特長だ。

 

愚者の心は口にあるが、賢者の口は心にある

(ベンジャミン・フランクリン)

 

この言葉の意味を深く理解している人だけが話すべき人。

 

僕は話の行間を読んでくれる繊細な人々が好きである。読解力は文明人としての最重要な項目。野蛮人は「言葉」単体にしか反応できないから、喧嘩、討論ばかりしている。文脈を理解できず、その真意を読み取れない。そういう人とは会話にならない。

 

音楽が好きな人同士の会話あるあるなのが、自分の好きな音楽に共感しあって話題を掘り下げていくことだが、これよく聞いてみるとたいてい自分の好きな音楽を語っているだけで相手が全く見えていないんですね。

その集団に入っても、好きな音楽を一方的に語られるだけなのでうんざりする。それが4人も5人も集まるとカオスで何も生まれない。ただただ自分の好みを押し付け、うるさいだけになる。

 

親愛なるコリピ(孤立する人々)のみなさまへ届けたい言葉がひとつだけある。

 

大きい声で話さなければいけない話題が楽しかった試しがない。

 

これが僕が四十数年生きてきて出た結論です。

何度も思い出して笑える話はたいてい小声で話した話です。

 

大声で騒ぐ男はやはりアレだった

昨日ある体育会系の集団がカフェにやってきて、大声で騒いでいた。その中の一番声の大きい男(一番頭が悪そう)だったのだが、とにかく人の話を聞かない。延々と自分の話、自分が楽しいと感じる話を語り続け、その仲間もさすがにあきれてた。

そのうちの一人が「このコーヒー、豆から出ている油の成分がいいね」と文化的な話を始めるとその声の大きな男は全く無言になった。文化的な話題にはついていけないのだ。豆を味わう味覚も備わってないのだろう。その高尚な話題はすぐに打ち切られ、うるさいだけの男のどうでもいい自分語りがまた延々と続いた。

ずっと声だけ聞こえていてどんな顔をしているのか気になったので、店を出るときにちらっと見てみた。福山雅治江口洋介を足して2で割ったような知性的な顔立ちをしていた・・・はずはなく、やはりそっち系の顔をしていた。

 

人間性は必ず顔に出るとまた確信した。

 

低レベルな人ほど重力が強く、集団に所属しているとその最も低レベルな人に引っ張られてしまう。話すべき友人は慎重に選ばなければいけない。

 

キャッチボールできる人は意外に少ない

昔から「会話はキャッチボール」と言われている。相手の受け取りやすいところへ投げる、そして相手も自分の受け取りやすいところへ投げ返してくれる。これを繰り返すだけで脳内から精神を安定させる物質「セロトニン」が分泌される。これが人と話す醍醐味。

 

相手が受け取れない球だけを全力で投げつける「ドッジボール」からは精神を安定させる物質は分泌されない。不快になるのは人として当然の反応である。

 

自分がどういう人になるべきかは明確。

相手がセロトニンまみれになるような会話を心がけたい。

 

自ら望んで孤立するのと、他人から疎まれて孤立するのはまた別の話。

後者にならないよう、気をつけます。