内向型の逆襲

念のため言っておきますが、ブログ名がとてつもなくダサいことは認識していますよ

人は本当に自由になれるのか

SNSでやたら目につく「自由に生きようぜ」というメッセージ。

過酷な労働を強いて、うつ病や過労死を生み出してきたブラック企業や日本の社会そのものが生んだもうひとつの「ブラックメッセージ」だと僕は思っている。逆に振り切り過ぎたね。

 

人は自由には生きられない

 

甘い言葉に酔う事はできるが、自由を謳歌するにはそれ相応の資格と覚悟がいる。それを満たす者のみが自由に生きられる。

自由と堕落を履き違えている人があまりにも多い。働きすぎ、給料安すぎのブラック労働の一方で「それはただ怠けたいだけでしょ」っていう人が増えている。

 

薄っぺらい者に影響を受けた末路

「バイトが嫌いだからブログで稼ぐ」と公言する女子大生が出てきた。影響を受けた面々を見てみるとやっぱりあの自由に生きようぜというメッセージを発信し続ける人たちだ。

彼女は「あの人たちにできたんだから私にもできるはずだ」と信じて疑っていないはずだが、稼げている人たちは人格はともかくなにかしら才能のある人たちだよ。

少し彼女のツイッターやブログを読んでみたが、影響を受けた人々の完全な劣化コピー。二番煎じ、三番煎じくらいなら味もするが、何回煎じたのかすらわからない薄すぎる内容でもはやただの「お湯」だ。心に刺さるものが何もなくあれで稼げるはずがない。

ただその仲間グループの人たちが寄ってたかってチヤホヤするもんだから、本人はその気になっている。「応援をしている」大人たちがあまりにも無責任すぎる。自分さえよければいいんだろうね。まともな大人は誰かが道を踏み外しそうになった時に、きちんとそれを正すことができる。まともでない大人は他人をそそのかすことしか知らない。

 

そもそも冷静になって考えると、何の実績もなく働くことすら嫌悪している女子大生の言葉がまともな人々に響くはずがない。厳しい事を言うが才能がないんだよ。それが全て。

発信のみを正義と信じる発信真理教。肝心なのは中身なんだよ。

 

ドイツの哲学者、ショーペンハウアーは言っている

読書が書く修行になる唯一の方法は、私たち自身の天賦の才の使い方を学ぶ事で、それは私たちがそういう素質をもっていることを前提とする。この前提がなければ、読書から学べるのは、冷たい血の通っていない、わざとらしい技巧だけで、私たちは底の浅い模倣者になってしまう

ショーペンハウアー『読書について』光文社古典新訳文庫

 

要約すると、

自分の中に才能があることが前提で、才能がない者は読書から真似する技術しか学べない。深い文章は書けないよ。

ということだ。

 

同じ本の中でショーペンハウアーは「薄っぺらい本を読まずに濃い古典を読みなさい」とも言っている。

薄いものから影響を受け続けると、恐ろしい失態を世に晒すことになる。昔から何も変わってないのです。

 

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

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忍耐の中から学ぶこともある

僕もそりゃあ若い頃バイトは嫌いだったよ。できればいますぐ辞めたかった。でも家賃を払うのにお金が必要だったし、嫌いでも行ってればたまに楽しい事もあるし学ぶ事もある。その時はわからないが後で気づく事もある。

 

・お客としてのふるまい方
・粋なお客さんに共通すること
・これをされたら店員が傷つくこと
・どんなに忙しくても常に冷静であれ
・切れたら負け
・無駄なおしゃべりは必ずミスを誘発する

 

多くのことに気づかせてもらった。

自分が客になった時のふるまいは全て当時のバイトから身につけたモノだ。

当時は社長や店長をグチったりもしたが、それは結局何も生み出さない無駄な時間だった。雇われて文句を言うのは簡単だが、文句を言いたくなければ起業するか社長になるしかない。自分でなんとかするしかない。社会とはそういうものだ。

 

未熟な自分の不平不満を吐き出して食べていけるシステムも存在しなかったし、応援する人間もいなかった。僕個人としても好きな事をやって生きていこうとは思っていたが、そんなの親に言う事じゃないし、誰かから応援してもらおうとか甘えたことは一切考えなかったよ。応援してもらえないのは当然だし、ずっと後ろめたい気持ちの中で生きてきた。ただ自分の実力をつけ、現実を変えることでしか、今の生活は変わらないだろうと思っていた。だから「私、ブログで食べていきます」って公言できる気持ち、オレには一生わからんよ。

 

現実を変えるための行動を少しずつ積み重ねてようやく今の自分がある。少しではあるが自分のやりたい事でお金を稼げるようになってきた。

才能がないのが、自分でよくわかっているのでやるしか方法はない。誰かに応援してもらえるのはもちろん嬉しいが、応援してくださいっていうほど愚か者ではないよ。

 

黙って黙々とやり続けることのパワーをなめちゃあいかん。

 

一番怖いのは洗脳

心地よい言葉が本屋の自己啓発コーナーに溢れている。SNSにはそれよりももっと心地よい言葉が溢れている。本は有料だから購入者も真剣に選ぶし、質の高いモノもあるが、ネット情報は無料だから質は低いものが多い。そしてそういうものは搾取される層に届きやすい。今は最も洗脳されやすい時代だろう。

 

僕も何かに洗脳はされているのだろう。ただそれは僕の成長を促すモノであり、洗脳は危険だと教えてくれて、自分の頭で考える事の重要性を説くモノだ。自分を甘やかすモノ、堕落させるモノは直感ですぐわかる。「あ、これは手にしちゃあいかんヤツだ」って警告される。音楽も、映画も、本も本当にいいモノを選び、触れてきたから今の自分がある。

 

残念ながら自分に都合のいい話しかきかない連中には何を言っても届かない。それが洗脳の怖さだ。自分の気にいらない考え方は全て嫉妬や攻撃とみなしブロック&アンチ認定。こんな人々が本当に恐ろしい勢いで増えている。

それがデジタルタトゥーとしてインターネット上に永遠に記憶されているからさらに恐ろしい。

 

ツラいから自由を求める気持ちは痛いほどわかる、だからこそ自分に厳しくすることも学習して欲しい。「好きなように生きろ」と言っている人も、実は「自分に厳しく」している。それを当たり前だと思っているからいちいち言わないだけだ。自分に都合のいい、甘やかしてくれる箇所だけを読み取ってはいけない。

 

自由に生きるのは才能のある一部の人だけに許される

ということを理解してほしい。

才能がない者は愚直に努力をするしかない

ということを覚悟してほしい。

 

これは全て自分に対する警告でもある。

フェスの満足度を上げるのは自分次第

直前の台風や地震もあったが、AIRJAM2018無事に終わったようだ。

SNS経由の情報しか知らないが、

ケンちゃん、なんばくん、相変わらずMC噛み合ってないんかい!

もはやそれでいいと思う。それこそがハイスタンダード。

 

AIRJAMは今回で7回目の開催だが、僕が参戦したのはAIRJAM98のみ。ハイスタの単独公演を観たかったのだが当時全くチケットがとれず、AIRJAMでようやく希望がかなった。はるか昔、約20年前の暑い夏の日だった。

 

結局それ以来一度もハイスタを見れてない。僕はおっさんになり20年の時の重みを感じるが、ハイスタンダードは今でもハイスタンダードのままのようだ。DVDに期待しよう。

 

悲しい側面

AIRJAMに限らずフェスというものはそれぞれのバンドのファン同士のいざこざがある。残念なことだ。全出演バンドが大好きということはありえないので、自分が嫌いなバンドやそのファンをディスる傾向がある。

「他のバンドもリスペクトしようぜ」とアーティスト側は言う。それが一部のファンにはなかなか伝わらない。

言わなければリスペクトしない人々ってのは、多分言ってもリスペクトしない人々だと思う。他者をリスペクトするという概念がそういう人にはない。

 

見なければ腹は立たない

AIRJAM98の頃は携帯電話のメールが普及し始めた頃で、僕なんかまだポケベルだった気がする(笑)。当然SNSなどなくて今より圧倒的に情報は少なかった。

僕にも興味のないバンドや嫌いなバンドもいたが、見なければいいだけの話でご飯を食べたり、トイレ休憩にあてたりしていたような記憶がある。時間が経てば次のバンドが始まるわけだし、悪口を言う必要も時間もない。いざこざも起きない。

 

そもそもきっかけとなる不平不満を書き込む場所がなかった

 

推測になるが多分SNSがファン同士のいざこざを助長しているような気がする。

 

大多数のうちのわずか一人がバンドやそのファンの悪口を言う

それに同調する人がちらほら出てくる

見つけて拡散する人が出てくる

繰り返して大きな波になる

それがさらに広まり最終的にそれが「大多数の意見」となる

 

SNSには人を団結させる力もあるが、簡単に対立を煽る側面もある。

ネガティブな情報ほど拡散されやすい。

 

人の本音はロクなものじゃない。知れば腹が立つし、対立も起こる。

世の中には知らないほうがいいことのほうが多い。

 

AIRJAM98の頃にはバンドの悪口を言っている人を見つける手段がなかった。だから余計な対立も起きず、みんなそれぞれいろいろあったとは思うが、みんな楽しく帰っていった。わかりやすく、シンプルな時代だった。

 

楽しむ方法はシンプル

楽しみだけを共有したい人ばかりだといいけど、嫌な気持ちを共有したがる人も同じくらいいる。それは仕方のないこと。

 

今は不平不満を書き込める場所がいたるところにありふれている。

 

悲しいけど悪口を言う人はいなくならないよ。「いなくなってくれ」って叫んでも多分無理。楽しい気持ちを台無しにしてるのは実は他人ではなくて、余計な情報を仕入れてしまう自分かもしれない。自分の感情を抑制できない人はSNSを見ないほうがいい。

それが率直な気持ちです。

 

不必要な情報を入れなければ争いは起こらない。

ファン同士のいざこざはSNSを見なければ起こらない。

 

楽しむために必要なことはシンプル。

一瞬でおじさんになれる方法教えます

とある人に自分の話をするのをやめた。

 

理由は明確でその人は人の話を必ず自分の話にすり替えるから。気がつけばいつのまにか演説になっている。自分語りが好きなんだろうね。心を許してくれている裏返しかもしれないが、結局こちらにストレスが溜まる。

 

僕は話を黙って聞いているからそういうのは僕に対してだけかと思ったが、他の人からも同じような話を聞いた。

その女性が言うには、

 

「あの人、おじさんになった」

 

とのこと。正直で核心をついた感想だと思う。笑えるけど、笑えない。

 

話を聞いていると思っているのは本人だけ

当の本人は「自分は人の話を聞くほうだ」と思っている。だからこちらからアドバイスをする気もない。本人がそう思っているなら余計な反感を買うだけだし、人の意見を素直に聞き入れるとも思えない。残念ながら自分で気づくしかない。

 

その人にはその人の主観というものがあり、それは当たり前のことだ。

ただ相談に乗るということは相手の話を客観のまま余計な主観を入れずに送り返すことだと僕は思っている。相談する人、特に女性はそんな余計な主観は望んでいない。言い方は悪いが、黙って聞いていればそれが正解だ。問題の解決は時間がしてくれる。

 

おっさん同士で罵り合うコミュニティが好きなら主観ファーストでもいい。僕個人としては主観をぶつけあっての余計な消耗は避けたいというのが本音だ。おっさん同士の罵り合いの中から何かが生まれるのを見たことがない。

そして自分が正しい、あの人が間違っているという会話や思考回路は果てしなく女子を遠ざける。

 

今もインターネット上ではおっさん同士、おっさん予備軍の若者同士、「オレが正しい」と揚げ足をとりあっている。そんな人々の精神が安定しているとはとうてい思えないし、そんな人がモテるはずがない。

 

自分の正しさを一生懸命主張する人ってすごく醜い顔になるんですよ。顔の見えないネット、SNSでもそういうのは痛いほど伝わってくる。

醜い顔してまで伝えたい事って一体なに?

 

一瞬でおじさん認定される行為

・話を聞かない(聞いているつもり)

・常に主観を入れて送り返す

・自分語りを勝手に始める

・自分に酔っている

・論理的すぎる(感情的よりはましだが…)

・話しているうちに不機嫌になってくる

・相手を楽しませるというサービス精神がない

 

もちろん指摘するだけでなく、僕もこれらには気をつけている。

人は他人の行為には気づくが自分が同じことをやってても気づかない。だから本当に常に意識してなければいけないと思う。

 

相手を喜ばせるのが会話でそれ以外は全部演説

僕は一人暮らしが長かった。一人の時間が多すぎて、大切な何かをこじらせてしまった人間だ。人が集まるところが基本的に苦手だし、無理して人と話そうとも思わない。

だからこそ少ない会話を大事にしたい。人を不快にしたくないし、人に不快にされたくない。

 

自分がしたい話をしても相手は絶対に喜ばない。

相手が喜んで話したくなることを質問する能力、それを引き出す会話力を磨いていこうと思う。

 

僕は年齢的には余裕でおっさんだが女性に、

「あの人おじさんになった」という

おじさん認定宣言をされないよう気をつけます。

田舎には田舎の消耗がある

昨日巨大なスズメバチの巣を撤去してもらったばかりだが、今は戻りバチの恐怖に怯えている。戻りバチというのは、巣のあった場所に戻ってきた働きバチで特徴は

 

巣を壊され激怒しているということ

 

ある意味今が一番危険だな。

昨日の夕方に撤去してもらった直後からかなりの数が飛んでいて、危険は感じていた。

今日は羽音がやけに近い。まさか屋内への侵入を許したかと心配したが、おそらく屋根裏部屋。ベニヤ板一枚挟んでいるが同じ屋内であることに変わりないし、古い家なので隙間もある。こちら側に来られたら完全にアウトだ。家にいながら全く気が休まらない。今もずっとBuzzっているような気がする。

 

早くこの戦いが終わってほしい。

 

理想郷などない

都会に憧れる者、田舎に憧れる者、都会で消耗し田舎を礼賛する者、都会に染まり田舎をディスる者。外国に留学した途端に「日本最悪」と発言をした者が、同じ口で日本に帰ってきた途端に「味噌汁最高」とのたまう。そんな人を多く見てきたし、今も至る所で目につく。今後も減ることはないだろう。

 

僕も都会で消耗し田舎に帰ってきた時、夕日を眺めながら散歩し「ここは落ち着くなあ、天国かよ」と思った。25年前上京してすぐの頃に「なんてここは刺激に満ち溢れているんだ、楽園かよ」と思った。

 

人間はとにかく今いる場所が最高だと信じたい生き物だ。

それができない者はどこかに理想郷があるに違いないと信じる。

 

都会と田舎、正直な感想

田舎に帰ってきて半年後くらいからダークサイドに気づき始めた。

田舎は純朴な人が多い説は完全な幻想だ。人は少ないが、純朴な人も少ない。ひねくれためんどくさいおっさんばかりが目につく。基本的にマナーが悪く、人口の割にやたらとポイ捨てが多い。社用車で看板を背負っている車で平気で窓からタバコの灰を外に捨てている。競争にさらされてないからマナーという概念が育たない。

 

都会に比べて景色はいいがその分自然が近い。ウチの場合庭にサルやイノシシが普通に出没する。虫もやたら多い。クモ、蛾は当たり前。ムカデなんて都会では存在すら忘れていたが、奴らの出没は毎年梅雨の訪れを知らせる恒例行事だ。靴を履く前のムカデチェックはここでは欠かせない。

 

都会は動物や虫の害は少ないが、人があまりにも多く、首都圏の満員電車は本当につらい。車の運転もアクセルよりもブレーキを踏んでいる時間の方が長い。競争にさらされていてダメなものは淘汰される。

生活コストが高いがその分優秀な人材も多い。

 

田舎は人があまりにも少ない。当然優秀な人材はいない。自然が近いがその分動物や虫など、コントロールに苦労することも多い。今回のスズメバチなど最たるものだ。

人やサービスに関しては競争にさらされないために本来は滅びるべきものが淘汰されていない。

生活コストは安いが、その分あらゆるサービスのクオリティが低い。

 

どちらが向いているかは住んでみないとわからない

僕は田舎と都会それぞれを20年ほど経験したので、それぞれの長所短所がよくわかる。

田舎から都会への移住も人に恵まれれば一花咲かせられると思う。

都会から田舎への移住に関しては、しがらみを無視できる人であればハードルは低いと思う。女性は虫への耐性が著しく低いので、その点から考えるとかなり厳しいかもしれない。

僕もかなり慣れたが、スズメバチやムカデに毎日遭遇していたらかなり疲れる。満員電車ほどではないが消耗する。

 

都会時代は混雑した電車や人混み、渋滞で消耗していたが、

同じように田舎でもモラルの低さや可能性のなさに消耗する。

本当にどっちもどっちだと思う。

 

理想郷などないし、今住んでいる場所を快適にしていくために努力するしか道はないということを改めて痛感した。

 

僕もスズメバチと戦わなければここでは生きてはいけないのだろう。慣れるしかない。

ネガティブ思考が命を救った

絶対にあってはいけないことが起こった。

軒下に巨大なスズメバチの巣を発見。思わず「うわーーーー」と声が出るほど。スターウォーズのデススターばりの迫力。

最近やたら外を飛んでいるなーとは思っていたが、まさかこんな巨大な巣が出来ているとは、油断したッ。

 

寝室のわずか数メートル先に、大量のスズメバチが寝泊まりしているというおぞましい現実をいきなり突きつけられた。

女子がよく「生理的に無理」という言葉を使うが、まさにそれと同じ状態。あのビジュアル、色、羽音全てが生理的に耐えられない。無理。

 

3年前のお盆にお墓参りをしてスズメバチに刺された記憶と痛みは今も強烈に残っている。僕にとって夏というものは蜂に刺されずに無事に過ごせればそれでいい。

 

刺された痛みとは別にアナフィラキシーの恐怖もある。

アナフィラキシーとは、急性の全身性かつ重度なアレルギー反応の一つ。

よく言われるスズメバチに2度刺されたら死ぬというのはこのアレルギー反応が原因。重度の場合心肺停止まで約15分。一人の時に刺されたら完全にアウトですね。

ススメバチのサイトには迷わず救急車をと書いてあります。僕はなんとか自力で病院まで行きましたけど、命に関わることなので、自分は大丈夫と思わずにひどいケースはすぐに救急車を呼んで欲しいと思います。

 

駆除すべきか、やりすごすべきか

自分でどうこう出来る大きさではないし、足場も悪いので自分でどうにかするという選択肢はない。業者による駆除には当然お金もかかるので冬を待つ、つまりやりすごすということも少しだけ考えた。

 

大丈夫だろう。自分は刺されないだろう。という謎のポジティブ思考と、危険を考えたら駆除すべきというせめぎあいがあった。

スズメバチの生態を調べれば調べるほど、無事にやり過ごせるとは思えないし、

「9月に凶暴化」

「巣を攻撃する敵とみなし攻撃してくる」

 

という記述が決め手になった。これ完全に死亡フラグ

活動は10月まで続くと書いてあり、それまで怯えながら暮らす経済的損失を考えるとこの出費は必要経費。結局駆除しか選択肢はなかった。

 

二人の勇者がスズメバチを駆除

実は数年前に同じような場所に巣を作られたことがあって、その時も業者さんに来てもらった。「もうすでに蜂はいなくなってます。12月になれば安全なので自分で落としても大丈夫です」とのアドバイスを受けた。見積もりとアドバイスをいただいたのに一円も支払わなかったのだが、すごく感じのいい業者さんだったので今回もそこにお願いした。ネットで安そうなところもあったが、僕は金よりも人で選ぶことにした。

 

電話で依頼、巣の確認と見積もり、実際の作業。4時間以内に全てが終了した。感謝しかない。

見積もりは一人だったが、その後道具を揃えて二人で来てくれた。勇者にしか見えない。作業を少しだけ見ていたが、本当に大変な仕事。自分には絶対にできない。

「ラケット」という言葉が聞こえたので、専門の道具があるのか?と思ったが、本当にバドミントンのラケットでちょっと笑った。勇者にふさわしい武器あるでしょう。

 

作業は日の暮れる少し前の夕方だったが、「戻りバチというのが巣のあった場所に帰ってきますが、数日経つといなくなります、ずっと居座るようなら連絡下さい」とこれからのアドバイスも少しもらった。

これを書いている今も窓の外には大量の戻りバチが乱舞しているが、これ本当に大丈夫か?自分の家がなくなって激怒しているもっとも危険な状態だと思うが。とりあえず絶対に窓だけは開けないようにしないと、巣を除去してもらったのに刺されて死んだら全く意味がない。

 

働きバチがみな巣に戻り、寝静まっている時を狙う「闇討ち」が正解なのかもしれないが、照明などが必要になるからこれしかないのか。完全駆除ではないのでそこだけがマイナス点。怖いものは怖いよ。

 

自分だけ大丈夫ということは多分ない

業者さんが除去した巣を見せてくれたが、近くで見ると改めてその大きさに驚いた。電話ではサッカーボールほど大きくはないと伝えたが、実物はバスケットボールくらいあった。死の匂いを感じる。やり過ごすというポジティブな選択をしなくて本当によかった。

 

例えば不健康な習慣で健康を損なう人は全てこの「自分だけは大丈夫という」という謎の思考回路で自分を痛めつけていく。

「自分だけは刺されない」という選択をしていたら、多分刺されて痛い目を見ていただろう。あれは本当にデススターだった。

 

夏場暑すぎて全く軒下方面の草刈りができていなかったところ、「ちょっと庭の草刈りでもするか」って思い立って刺される前に気づいてよかった。

またいつ作られるかわからないのでハチの巣積み立ても開始しよう。

 

毎年20人くらいの人がスズメバチに刺されて命を落とすらしい。

刺されたことのある人はあの痛みがわかるし、死んでしまうかもしれないというのも体でわかるから、お金を払うことをためらわないが、なかなか危険な生き物だという認識は広まらない。

 

刺されたことのない人には届かないかもしれないが、もう一度言っておきたい。

 

・9月に凶暴化します

・刺されたら必ず病院へ行ってください、死にます

・濃い色の服、香水等は刺される危険性を高めます

・絶対に一人で山へ入ってはいけません

・お金はけっこうかかりますが巣ができてしまったら業者さんにお願いしましょう

SNSで恥を晒す前にすべきこと

古くはバイト君の不謹慎写真問題に始まり、炎上やクソリプ問題、いいね依存症など様々な問題を引き起こしてきたSNSだが、僕個人的に問題だと思うのは、

 

有名になりたがっているだけの人が増えたこと

 

宝くじに当たった人のほとんどがお金の使い方を知らずに結果的に不幸になるように、実力がない人が有名になっても、それ相応の振る舞いができずにすぐに元の世界に戻ることになる。

 

有名になる、影響力を持つための方法論だけがネット上、特にSNSには氾濫している。それを煽る者と騙される者。搾取する者とされる者、昔からその構図は変わらないが今は本当に酷い。無責任に煽る人間が多すぎるし、そのほとんどが人としての必要な力を持っていない。未熟な自分を世間に晒して何になる?信じてくれるのは同じく未熟な人だけ。

 

評価ファーストの世の中になっていて、なんでもかんでもとりあえずネットにあげる状態で、本人は気づいてないが未熟な状態を公開するということは「晒す」ということだ。わざわざ自分から晒す必要がなぜあるのか。

評価だけがそこにあり、地道な努力に耐えられないか、したくないからだろう。

 

質の悪い音の蔓延

ほとんどの業界で起こっていることを音楽の世界で例えると、音質の悪い音源の氾濫がある。

 

1、メンバーに聞かせるためのデモ

2、ライブハウスに送る一発録音のデモ

3、多重録音のデモ

4、正式な音源のためのプリプロ

5、正式な音源

 

プロとアマチュアの差はあっても曲を人に聞かせるのに必要最低限な音質がある。

 

1が一番音質が悪く徐々に良くなっていくが、最近は1の段階でネットにすぐ公開する人が激増している。実力より、とりあえず他人の評価が欲しい典型例だ。

2を販売している輩もいる。曲が始まるまでの無音が五秒くらいあって失望、その人の評価は地に落ちた。もし買って聞いてくれたとしても、継続して買ってくれるとは思えないし、悪評が広まるだけだ。

 

プロはもちろん、プロになりたい人はそんなことは絶対にしない。自分の中に確固とした音質、演奏の最低ラインがあり、それを超えたモノしか人に聞かせないし、そのレベルが高い。だからこそプロとして生きていける。

マチュアの真似をしていたら、一生アマチュアのままだ。

 

実力だけが足場を固める

有名になる。注目を浴びる。気持ちのいいことかもしれない。いいねがつくから可視化しやすい。それは本当にその人のためになっているのか。

 

世の中に自分を売り込む前にすべきことは一つしかない。

 

実力をつけること。

 

本当にそれしかない。

 

戦略ももちろん重要だが、それはある程度の実力をつけてからでいい。

泥臭い努力を当たり前のように出来るようになってからでないと、高いステージに引き上げられてもすぐに引き下ろされる。一度引き下ろされると這い上がるのはさらに過酷になる。世間は冷酷で「人気者」に冷たいし、「元人気者」に対してはもっと冷たい。

 

成長は自分には見えにくいし、泥臭い作業はしんどい。

その単調で成果の見えない作業の繰り返しが実力を作る。

甘い話に騙されないで、どうか実力を磨くという最も有効な方法を選んで欲しい。

映画「宇宙兄弟」(実写版)後編

前回、映画宇宙兄弟の前半について書いたので今回は後半。

 

結局シャロンは出てこなかった。それが後半を見終わっての正直な感想。

迷っているムッタを優しく導くシャロンの存在はかなり大きいが、2時間の枠内では描ききれないとの判断だろう。仕方ない。

 

原作を映画が超えるのは難しい

映画には2時間という制約がありその中に全てを詰め込まなくてはいけない。原作が緻密であればあるほど、重要な話を削ることになる。

この映画宇宙兄弟はキャスティングも良かったし、全体に流れる雰囲気も良かった。音楽も最高だった。原作と比較しなければこれで十分楽しめる。原作に対する情報や思い入れが多いほど物足りなさを感じる。そんな映画だったと思う。

 

映画というものは俳優の演技を楽しむものなのかもしれない。今後、原作をよく知っている場合はそういう落ち着いた視点で観ていこうと思う。

 

原作で好きなエピソード

ムッタが橋の上でラッパを吹くシーン

宇宙服に自分を映すムッタと同じことをしたせりかさんのお父さんを重ねるシーン

JAXAの星加さんが回想する話全て

せりかさんの名前の由来の話(#24第3巻収録)

宇宙兄弟(3) (モーニングコミックス)
 

 閉鎖ボックスでうどんを作る話

アズマタキオの存在感

ブライアンのレジェンド感

 

挙げるとキリがないのでこのくらいで。ぜひ原作も読んでみてください。

アニメもいいです。声優さんも豪華。南波家の四人中三人が例の海賊団のメンバーです。

 

広がっていくなら素晴らしいこと

描きたいものをじっくり時間をかけて描ける、読ませられるという点で、やはり漫画が最高のメディアという結論が僕の中で出た。

 

音楽も同じでアーティスト本人が聞かせたいのは、アルバムであっておいしいとこだけを集めたベストアルバムではない。こだわりがあるアーティストほどベストアルバムを出したがらない。みんなアルバムを聴いてほしいと思っているけど、時代と再生装置の進化がそれを許さない。切ない時代です。

 

映画宇宙兄弟がきっかけで漫画やアニメを観る人が増えれば嬉しいし、宇宙兄弟がきっかけでPrimal Screamを知ったという声もアマゾンレビュー内に見つけた。

そうやって一つの作品がきっかけに文化が広がっていくのは素晴らしい。 

Give Out But Don't Give Up

Give Out But Don't Give Up

 

 

 

映画「宇宙兄弟」(実写版)前編

希望を持って人生を生きている人の必修科目「宇宙兄弟」。漫画は買って読んでたし、アニメもDVD借りて観てましたが、最近アマゾンプライムに実写映画が追加されたので観てみました。

 

実はまだ見終わってないのですが、開始3分で心を鷲掴みにされました。

オープニングテーマ曲が、Primal ScreamRocksなんですよ。

もっと早く言ってくれ、知ってたらもっと前に見てた。

いやー、変なところで興奮した。

 

あのドラムのイントロが始まって、ギターが入るまでのあのわずかの時間。

「まさか、そんなはずはない」と思ったけど、そんなはずはありました。

ほぼフルコーラスで流してくれた。最高のサプライズ。

USAではなくUKのバンドだし、宇宙兄弟とプライマルスクリームがどうしても結びつかない。選曲した人、センス良すぎ。メチャクチャしっくりきた。

変なJPOPの曲じゃなくて良かった。

この曲何百回って聴いているんですけどね。違う興奮があった。映画に音楽を掛け合わせると最強になりますね。 

Give Out But Don't Give Up

Give Out But Don't Give Up

 

Death NoteレッチリBECKでもOasisのDon't Look Back In Angerが使われていた。邦画に洋楽を組み合わせるっていうこのコラボ好きですね。

 

音楽の製作は服部隆之さん、エンディングテーマはColdplay、豪華です。

 

キャスティングがいい

さて音楽ばかり語っても仕方ないので肝心の映画の内容に移りますが、まず配役が最高。

 

ムッタ 小栗旬、彼なんでもできますね。映画が安定します。

ヒビト 岡田将生、雰囲気ぴったり。

JAXAの星加さん 堤慎一、これもハマり役。彼は前半の最重要キャラなので。

伊藤せりか 麻生久美子、彼女以外にいないでしょうね。最高です。

キャスティング完璧。

 

どこを省くかにも注目

ストーリーが素晴らしいことはわかりきったことなので、2時間という枠に収めるために何を省くかに注目して観てます。

 

ドーハの悲劇ジダンの頭突きの解説もない。

半分見終えて、まだシャロンが出てきてない。

ラッパを吹くシーンもない。

星加さんが髪が薄いという設定もない。

 

完全版を観たければ漫画やアニメを見ればいい話なので、「ほー、あれが削られたか、なるほどね」と納得しながら観てます。ガンダムも映画版は重要なシーンがメチャクチャ削られてますからね。

 

マンガでは会社をクビになったムッタが立ち寄るのはマクドナルドだったが、映画はフレッシュネスバーガー。フレッシュネス派としては見逃せない重要シーンでもある。

 

後半を観る前に書いておきたかったこと

僕は2時間まとめて映画を観る集中力がないので、いつも細切れで観ている。今回はかなり引き込まれているので最後まで行けそうかなと思ったけど、どうしてもこれを書いておきたいので中断した。

 

前半山場のヒビトのロケット打ち上げの名シーン。映画「遠い空の向こうに」でもそうだったが、ロケットが打ち上がるだけでなぜ感動するんだろう。不思議。

そしてヒビトが月に降り立ったあと、ムッタがJAXAに登場するシーンでも再びPrimal Scream / Rocksが。なんて破壊力だ。またどうでもいいシーンで泣いた。

政治・社会問題を熱く語るおじさんはひとつの暴力

ロックバンドU2のボーカル、ボノの声が出なくなったというニュースが入ってきた。現時点では何もわからないが、もし声帯にも寿命があり酷使することによって全く使えなくなってしまうとしたら有意義なことに声帯を使いたいと思う。

 

「なぜおじさんは政治や社会情勢の話を語りたがるのか」素朴な疑問。僕はどちらかと言えば無口で人の話を聞いている時間が多いので余計にそう思うのかもしれない。あの人たちの目的は何なんだろうか。

 

そして一番疑問に思うのは、

相手に興味がなくても勝手に政治や社会情勢を語り出してしまうこと

これははっきり言って迷惑。

好きな者同士で語り合うなら何も問題はない。勝手に朝まで語り続ければいい。SNSやネット内ならいくらでもやっていいと思う。相手にはスルー・ミュート・ブロックする自由があるのだから。相手には逃げ場がないリアルでそれをやるのはどうだろうか。

興味がない他人の時間を奪ってまで語る価値のあるものなのか。

 

迷惑な「語るおじさん」への対処方法を僕なりに考えてみましたので、少し長いですが困っている人は読んでみてください。

 

カタリスト達の特徴

どういう人が語るおじさんなのかいくつか挙げてみると

・頑固・エゴの塊

・プライドが異様に高い

・人の話を聞かない

・自分は正しいと信じている

・頭がいいと思われたい

・自分がバカにされることに耐えられない

 

幸せそうな人が全くいないのが特徴だ。

政治を語るから不幸になるのか、それとも不幸だから政治を語るのか。僕にはわからない。実生活が満たされないと政治・社会情勢に興味が出てしまうのか。

そして幸せと引き換えにしてまで政治・社会情勢を語る必要はあるのか。

 

僕なりの政治や社会問題との接し方

政治・社会情勢に無関心ではないけど、人と語り合うほどのものでもないというのが僕のスタンスだ。勝手に情報を集め、自分の脳内で整理し、それで終わりだ。自分の今後の生き方に反映されるかもしれないが、人と話そうとは全く思わない。

興味がある人がいれば話すかもしれないが、自分から話題を振ることはない。その程度。

マナーとして人とそういう話をしないだけのこと。無関心なわけではない。

 

例えば僕はガンダムが好きだが、女子高生にガンダムの話題を振ることは絶対にない。相手が興味がないとわかっているし、絶対に盛り上がらないとわかっているからだ。一方的に語ることになり、相手は興味がないのに聞かされる羽目になる。何も生み出さない不毛な時間だ。

会話とは相手の時間を奪って成立するモノ、それなら楽しい時間を過ごしたい。

 

正しさを主張する会話は最終的に他者の否定に行き着く

「あいつを論破してやったぜ」と主張するとき、人はすごくイヤな顔をする。爽やかに誰かを論破する人を見たことがないし、論破されて爽やかな顔をしている人も見たことがない。

人間としての過酷な生存競争の中で「他人を否定する力」が必要なのかもしれないし、その無慈悲さ・強大さを思い知る。カタリストたちは他者を否定するのが好きなんだろう。

 

酔っている人に物事を変える力はない

スケールの大きい話はするが、足元がグラグラな人を何人も見てきた。

環境問題を熱く語っていた人間が、タバコの吸い殻を地面にポイ捨てして去っていった。

自己成長を熱く語っていた人間が、自分の店の前の溝に廃油を捨てていた。

変えるべきことはそういう細かいこと。その積み重ねで大きいことが変わる。

大きいことだけを変えようとしても何も変わらない。

カタリストたちも大きいことを変えたいのだと思う。でも彼らの足元には今すぐに変えられる簡単なことがゴロゴロ転がっている。

 

政治・社会問題なんか語らなくても世の中を良くする方法はいくらでもある。

(1)されてイヤなことを人にしている自分に気づく

人は他人からイヤなことをされることには敏感だが、同じことを人にすることに対しては鈍感になりがちだ。だからそのセンサーの精度を上げればいい。

(2)語るよりも行動

「あいつはダメだ」って言えば言うほど自分の首を絞めることになる。他人にケチをつけられるほど実績がある人はそんなにいないし、デキる人はそんなことをしない。それに気づくことだ。幸せな人は黙々と自分の幸せを追求しているよ。

(3)無言で話を聞く

そして最もシンプルなのが人の話をじっくり最後まで聞く。ただそれだけのことができてない人があまりにも多い。まず聞いて、余計なことを語らない。それだけで世界は良くなる。

 

熱く語ることが好きな人たちは何か大きいことを知っている、変えようとしている、そんな自分に酔っているのかもしれない。酔っている人間が何かを変えることはない。何かを変えたいならとりあえずシラフじゃないと。

 

有限だからこそすべきことがある

人の時間は有限で、無駄にできる時間は思っているほど多くない。声帯も耳も有限でどうせなら相手を喜ばせることに口を使いたいし、聞いて嬉しいことを耳に入れたい。

 

僕は無駄な語りなどせず自分にできることを地道にやっていくだけだ。

政治の話して自分のレベルを高く見せようとするくらいなら、ドラクエのレベル上げするよ。その方がよっぽど楽しいし倒せる敵も増える。

家族の仲が悪くて消耗している人々へ

平成最後の夏の終わりにさくらももこさんが亡くなったという悲しい知らせが届いた。

ちびまる子ちゃんにともぞうという気のいいおじいちゃんが出てくるので、さくらももこさんの実際のおじいさんもそうなのかと勝手に想像していたが、実は逆だということを知った。あれは彼女の願望が形になったキャラだった。

まる子はともぞうが大好きだったが、ももこは大嫌いだったようだ。

 

彼女のエッセイの中でも、不仲を公言していてそれに安心、共感した読者も多いようだ。

日本には「家族は仲が良くなければいけない」という強烈な同調圧力があり、多くの人がそれに苦しめられている。さくらももこさんの「家族は仲が悪くてもいいんだよ」という言葉・メッセージに救われるんだろう。

家族関係で悩んでいる人々があまりにも多いことを再確認させられる。

 

僕が今回伝えたいのは、

家族の仲が悪いことは全くネガティブなことではない

本人がどれだけ誠実に生きるかの方がよっぽど重要だ

ということです。

 

少し長くなりますが最後まで読んでくれれば幸いです。

 

家族・親戚の誰かを嫌うのは人として当たり前のこと

僕の場合残念ながら、理想の家族、理想の兄弟、理想の親戚関係とは程遠い。

父親は「ありがとう」「ごめんなさい」を絶対に言わない典型的昭和人間で、ひと言でいうと性格の悪い暗くてひねくれた男だ。自分はその逆になろうと強く思っている。感謝はしているが、尊敬はできない。これが正直な気持ち。

 

僕自身、田舎に帰って約3年ほど祖母の面倒をみたが、さくらももこさんの祖父への気持ちがよくわかる。みたのは面倒ではなくて地獄だった。都会で親族のしがらみがない中で20年自由に暮らしたあとだからなおさらだ。

僕は基本的に「何も考えずに余計な事を口走る人間」が嫌いだ。

 

家族の仲が良いことは絶対にプラスだと思うし、もしそうならラッキーだと思う。素敵な家族を見ると羨ましいなと思う。尊敬する人が両親ならそれは最高なことだろう。

その一方で家族の仲が悪いこと、家族の誰かを嫌いになることを全く悪いことだと思わない。むしろ普通のことだと思う。それはまったく自然な感情で人間とはそういうもの。

もし家族の誰かを嫌うことに罪悪感を感じている人がいるなら、いますぐやめてください。

 

家族間の人間関係で消耗するとすれば、その最大の理由は

「家族は仲良くなければいけない」と思い込むからだろう。

「家族だから仲良くしなさい」と強要するからだろう。

その不要な家族神話から解放された時に、人は幸せへの道を歩き出すと僕は考えるようになった。

 

人が人を嫌うのは自然な感情で、「本人がそういう行動をとれば他人はそう思う」だけのこと。なぜ僕はばあちゃんを嫌ってしまったのだろう、と自分を追い詰めることはもうないでしょう。

 

仲が悪くてもまともに暮らしていける人はたくさんいる

一般的には家族関係が良好であることを全力で勧めてくるので生きづらい世の中だとは思うが、良好でない人もたくさんいるのでどうか安心してほしい。

家族の不仲を公言されている人で僕が今ぱっと思いつくのは女優の山口智子さんと杉本彩さん。詳細は省くが、それぞれ家族に苦労した過去を持つ。

お二方ともに自立した考え方をもっていて、幸せに暮らしているとても素敵な女性だ。家族との対立が彼女たちをさらに強く、美しくしたのだと思う。

歌手の矢沢永吉さんも孤立無援の状況から強烈な意志の力で成り上り、現在の地位まで上り詰めたのは多くの人が知るところだ。

 

家族関係の良し悪しは、人にとってのたった一つの要素でしかないと僕は考えている。

それに縛られ、自分を不幸な世界に閉じ込めるほどの重要な要素だとは思えない。

それよりも大事なことはたくさんあるし、すべきこともたくさんある。

 

家族関係の悪さを自らの力で乗り越えた人は、堂々と清々しく生きている。そして人に優しい。

 

次の時代はシンプルに

仲間、絆、つながり、一見気持ちのいい言葉だが使い方を間違えれば人をどんどん追い詰めていく。古い価値観で押さえつければ人は簡単に不幸になっていく。

皆、しがらみの中で生きるのはイヤなはずなのに、自らしがらみを背負ってしまうのはなぜだろう。不必要な古い価値観にいつまでも縛られているからだ。

 

もし家族の仲が悪ければ、あなたがまともな人間になればいい。

もし親族に嫌いな人がいるならば、あなたがそうならなければいい。

 

そういうシンプルな生き方ができればいいんじゃないかな。

平成の次の時代はそういう時代になってほしいです。

 

 

もものかんづめ (集英社文庫)

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